6月9日 仏教とイスラームの連続と非連続・・文明論からアプローチ 概要 文明の比較論から、このテーマを考え、新たな視点を加えつつ、仏教特に大乗仏教の発生メカニズムを約1000年後に、 ≑同地域で起こった、東西文明の融合の結果としてのイスラーム神秘主義、いわゆるスーフィズムが、インドにおけるイスラーム定着、特に東インドにおけるイスラームへの改宗の原動力となったのではないかという予想を、思想面から検証する試み。いずれにても、そう考えるかつてと仏教が盛んであった地域に現在、イスラーム教徒が多い理由もうなずける。 この視点に立つと、中央アジアから西北インドにおいて発展し、更に世界に伝播した大乗仏教の宗教的な特徴が、後のスーフィズムの発生や展開とパラレルに検討できるのではないか、と思われる。 つまり、両者は 地理的にはほぼ同じ地域 文明的な条件も、西方においての大変化から、中央アジアの既存の宗教や文明と 半ば強引に、そして歴史的必然として両者が融合するという過程である。 大乗では、西からギリシャ・ローマの文明、既存のインド的、ソグドなどの遊牧系の民族文化が、メガオアシスである、中央アジアや西北インド(アフガニスタンを含む)地域において、否応なく融合した。その結果、一種のキメラのような不自然さはあるが、しかし多様な要素を持つがゆえに普遍的な性格を持つことになる。 この点は、文明論から説明がつくのである。しかし、本格的に検討することは、他の機会に回し、簡単に整理すると以下のようなことになる。 つまり、我々が大乗仏教と呼ぶ、宗教運動は、中央アジアという特殊な地域において起こったものであるが、それと同様にイスラームの神秘主義のスーフィズムも、同様な地域で発生する。勿論、スーフィズムには多様なものがあり、ガザーリーどの主に西側地域のものもあるが、ここでは東側の展開と世界展開が前2世紀から12世紀くらい 東側、西洋ではあまり知られていないスーフィー達をさす。彼らは、後9世紀から中央アジアにおいて仏教やゾロアスター教を、イスラームと融合させたイスラーム神秘主義思想を展開する。これをここではスーフィズムと呼ぶ。代表的なものは、クトブ・ウッディーンやファリドウッディーンなどである。しかし、彼らはイスラーム学者や西洋の研究者にはあまり知られていない。 このほかにもたくさんの中央アジア、中央アジア系のスーフィーの活躍が注目される。 一般に、文明にはオリジナル文明と借用文明(トインビーは恒星文明と衛星文明とした)がある。つまり、文明の基盤を自ら編み出し、それを中心に展開する文明と、一応は独自な文明を持つが、その独自性の基本的な部分を他者に依存する文明である。だから恒星と衛星というわけ方は、的を得た表現である。 どちらの文明も他者から当然影響を受けるが、その時の文明に対する対応が、両者の間では大きく異なる。 つまり、恒星文明は、自らの盤石な基礎があるゆえに、文明を受け入れるにも、大きな軋轢が生じる。つまり、重なり合う部分の調整に大きなエネルギーを必要とする。しかし、 借用文明、つまり衛星文明には、そのような文明における根本的な対立はない。故に、他の文明を受け入れることは容易であり、根本対立点がないので、新来の文明とも容易に融和する。つまり、もともと借り物でできているので、着替えるのにも抵抗が少ないということである。やや極点な表現であるが、分かりやすく言えばこうなる。 そして、中央アジアのこの融合文明によって生まれたのが、大乗仏教であり、スーフィズムである。 それゆえに、スーフィズムの展開は、大乗仏教と同様のルートで、東ンド・東南アジアへと、大乗仏教をなぞるように展開する。ただ、中国については、イスラームの展開は遅々として進まない。そこには、イスラーム独自の政治と宗教の一元的関係があり、それが中国独自の皇帝政治と鋭く対立する点があるからではないか、と思われる。 このようなことを考えつつ、科学研究費による研究の成果報告書を書いてみた。 科学研究費の成果報告を書きましたが、書き足りなかったので、少し十室させてみました。 本研究は、研究代表者である保坂が、30年来研究としてきたインド・仏教の衰亡研究、特にイスラームとの関係を、同テーマの中心に置いた、世界的見ても新しいテーマ設定によってなされた研究の一環であり、いわばインドにおける仏教興亡史研究における独創的な研究分野を開くものである。しかし、このテーマは、宗教学的、インド学的、そして何より仏教研究において重要にもかかわらず、筆者を除いては、国内外において、このテーマに取り組む研究者は育っていないか、余り注目される成果は表れていない。 その理由は、まず同テーマが当該地であるインド、あるいはバングラデシュなどの地域の研究者において関心を喚起するテーマとなっていないという点がある。なぜなら、当該地域は、ヒンドゥー教地域では、仏教はヒンドゥー教の一部であるとして、その独立的存在に対して宗教・ナショナリズム的な視点も含めて敢えて問題提起しないようであり、またイスラーム側においては、殆ど考察の対象にすらなっていないのが現状である。 そのような地域社会の宗教的、あるいは学術的な背景と、特に日本や欧米の仏教研究者の研究が文献研究に偏っている現状との相乗的な理由で、インド仏教の衰亡という歴史的な現象の研究は注目度の低いテーマとなっていたと思われる。 ところで、現在の南・中央アジア・東南アジアにおいては、かつて仏教の隆盛した地域、特に大乗仏教が、殆どイスラーム化し、またヒンドゥー教の地域になっている。この時に、仏教と同根異樹のヒンドゥー教との関係は、容易説明がつくのであるが、仏教とまったく接点を持たないイスラームとの関係は、従来の研究では、「イスラーム勢力による暴力的な改宗政策による」などの定式化された説明で、深い研究はなされてこなかった。 さらに、21世紀におけるイスラームの世界的な台頭という現象を考えるとき、また、仏教というイスラームから見ると多神教(カーフィル)の宗教との関係が、今後どのような経過をたどってゆくかを考えるためにも、その歴史的、更には宗教史、宗教思想、考古学などの成果を総合的に考えることは、極めて重要であると思われる。 少なくともその要請は、単に仏教学、インド学、宗教学あるいは歴史学のみならず、社会科学の国際政治、国際関係の諸学などの研究にも基礎的な考察史料を与えることになる。特に、諸宗教の平和共存の思想、あるいはその限界についての事例研究としてその成果が、これらの諸分野の基礎研究として求められている。 これらを加味して、インド仏教の衰亡、特に、最後のインドにおける仏教の興隆地東インド仏教の衰亡に関する研究には、文明論的な総合研究が求められる。 2.研究の目的 前述のように、本テーマは、インド仏教史の研究領域のみならず、インド学、宗教学、あるいは文明論はもとより、更に研究領域を超えて、現在あるいは近未来の国際社会を考えるうえで、極めて興味深いしさを与えてくれるテーマである。つまり、イスラームの拡大によって、どのような社会的、あるいは国際関係における変化が生じつの科、ということを歴史史料などから明らかにできるという意味で、単なる過去の東インド仏教の衰亡という歴史的な事実の事例研究に止まらない、現代的な意義のあるテーマでもある。 もちろん、その基本は仏教という普遍宗教の仏教が、何故、どのように東インドにおいて、衰亡したかについての研究である。今回は、従来ほとんど史料が見当たらないかった同地域の仏教の衰亡に関して、考古学的な発掘資料のみならず、他の地域の仏教からイスラームへの宗教変容(改宗)現象の比較を通じて、この現象を総合的、つまり文明論的に検討することを目指した。特に、本テーマにおけるスーフィズムの果たした役割について着目した。 いずれにしても、中国文献、発掘された碑文、イスラームの資料など本テーマに関連すると思われる文献史料のみならず、同じく仏教からイスラーム教へと宗教が変貌した、中央アジアとのスーフィズムが、仏教の滅亡とイスラームの拡大、つまり民衆のイスラームへの改宗に如何なる役割を果たしたかを中心に、思想的な仏教とスーフィズムとの思想的な連続性と非連続性について、考察する。 またこのテーマは、更に東インドと同様に仏教とヒンドゥー教の混交地域であった東南アジアがなぜイスラーム地域に変貌したのかという点について検討する基礎研究として、今後の研究に発展させたい。 いずれにしても、本テーマは、宗教の変容、特にイスラーム教の拡大という現象が、どのようなメカニズムで成り立ち、またその結果がどのような文化的、更には文明的な変化をもたらしたかという、いわば文明論的な、そして更に言うならば、21世紀において顕著となってきたイスラームの復興と拡大という古くて新しい現象を如何に考えるかの絶好のサンプル研究とする。 既述のようにイスラームとは宗教構造が大きく異なるヒンドゥー教や仏教などの、彼らがカーフィル(多神教徒)と呼ぶ宗教集団との関係性の研究は、今後の国際社会の未来を考えるうえで大きな歴史的な示唆を与えてくれる研究であるとの視点から、特に、東インドの仏教の衰亡とイスラームの台頭の関連性について、その平和共存思想という視点から明らかにする。 というのも、現在の当該地域は、結果としてイスラームが優勢であるが、その間数世紀にわたり仏教とイスラームの関係は、共生関係にあり、現在も中近東のイスラームとは一線を画す多神教徒と共生可能なイスラーム社会を形成しているからである。 以上のように、本研究テーマにおいては、仏教の衰亡とイスラームの台頭という宗教変容を、多面的、つまり文明論的な視点から検討するものである。なぜなら、宗教が変わる、あるいは変えられるということは、実にそれを支え個々人の精神世界から日常文化、更には社会全体の変容に連なることであり、文化断絶さらには文明の断絶という現象を、客観的に検討することで、他地域の宗教変容と文化、文明の断絶現象との比較検討が可能となるのである。 東インド、バンクラデーシュ、そして中央アジア、更には東南アジアとのイスラームと仏教の連続と非連続の関係を視野に入れた研究の基礎研究としたい。 3.研究の方法 研究方法としては、まず現地調査を行い、五感によってその現実を確認することを重視した。というのも、従来のこの種の研究は、文献の上での研究が主であり、実際に現地に足を運ぶことはあまり重視されなかった。しかし、まず、当該地域に赴き現地の研究者ののみならず住民との交流、そして何により自然条件を肌で感じることを重視した。 それらを体験することで、文献の読みにおいても、独自の観点が見いだせるからである。その成果の一端は、「ヴィクラムシーラ寺院訪問記」(『在家仏教』)に述べておいた。 一方で、現地調査を通じて入手できる最新の情報、特に考古学的な情報や現地研究者との交流で得られる小さな情報、それらを集積し、また関連付けて考察することで、より現実に即した研究結果が得られることになる。 また、膨大な資料の読み解きには、かなりの時間も必要であり、またそれらを総合的に体系づける方法論も不可欠となる。 本研究では、資料的欠乏や先行研究の少なさを補うために、比較文明学の手法を採用し、単なる文献資料や考古学的な資料の限界を超えて、つまり、資料によって語らせる的な手法では不十分な本テーマの解明に、地域との比較研究など類推や対比研究を通じて、現実との整合性を視野に、社会科学的な分野の研究法も採用してみた。 いずれにしても、本件研究は、単なる過去の歴史的な事象であるインド仏教の衰亡というテーマを、歴史的な事象として研究するのだけではなく、その今日的な意義を視野に入れて研究することを目指したものである。 その中には、イスラームによる紛争が多発する現在において、イスラームとの平和共存の可能性を見出する試みも含まれている。 4.研究成果 今回の研究テーマの成果は大きく以下のようにまとめることができる。 まず、東インド仏教の衰亡に関する文献や資料分析の研究から明らかにできた部分である。この点は、今後漸次学会などで発表してゆくが、考古学的な資料分析を現在進行中である。その中には、従来あまり知られていなかったバングラデシュのルアヤバリ遺跡における仏教寺院からイスラームのモスクへの転用が明確に認められる遺跡によって、最初期のイスラームのインド侵攻を描いた『チュチュ・ナーマ』の「仏教寺院をイスラームのモスクに転用した」という記述を傍証するものとして注目さえる。この点は、中央アジアウズベキスタンのサマルカンドにおける発掘調査においても、仏教寺院の基礎の上にモスクが建設されてことが明らかとなっている。この事実を単なる征服者の戦勝記念の蛮行徒のみ考えるのではなく、ここに宗教変容の現実を見ることが重要であるとの検討を行った。 この点に関連して、仏教徒イスラームとの連続と非連続の関係は、「イスラームと大乗仏教」末木文美士・下田正弘他編集『大乗仏教のアジア』、あるいは「仏教とイスラーム教の連続と非連続」梅村 坦『中央アジアの現代的視座』において、その研究の一端を発表した。 詳しくはこれらの書物に譲るが、今回特に、中央アジアとベンガル・イスラームの関係性が、当該地域のイスラーム文献、伝承において強調されている点、また歴史的にも中央アジアのイスラーム勢力が当該地域を支配した点などから、両者の連続性に改めて着目してみると、イスラーム勢力、仏教勢力との間に、非常に近似した点を見出すことができ、このスーフィズムの成立と仏教、特に大乗仏教の影響関係に行き着くこととなった。余談ではあるが、更に、中央アジアにおける独特の文明融合の社会背景が、紀元前後においては、大乗仏教、特に浄土信仰や華厳経の思想を生み、8~12世紀においては、イスラームと仏教などの宗教との融合から、スーフィズムを生んだという作業仮設を生んだ。その結果、従来あまり明確ではなかった大乗仏教の発生のメカニズムに関しても、同じく諸宗教、文明融和(混交ともいえるが)を志向する当該地域の文明的な特徴からより説得力のある仮説を導き出せた。この点は今後一層の検討を必要とする。 一方、この文明論的な視点を用いれば、仏教とイスラームとの文明融合が、中央アジアにおいて9~12世紀に起こり、この仏教とイスラーム教の融合思想が生み出したといっても過言ではないスーフィズムが、インドのイスラーム化、特に仏教徒のイスラームへの改宗のハードルを低くしたという仮説が成り立つのである。 その結果、政治的、宗教的にはイスラーム一色になった中央アジアであるが、そこから生まれたスーフィズムの一派が、インドのイスラーム化に大きく貢献した、という歴史的な事実と文献や考古学的な資料との連関から、従来の謎であった仏教からイスラームへの宗教変容の連続と非連続の関係の一端を説明できることとなった。 そして、この点において、イスラームと仏教やヒンドゥー教との平和的な共生や、思想的な融合の可能性という、21世紀の国際社会において最重要課題の一つである。イスラームと非イスラーム、特に多神教徒との平和的共存の可能性を示す研究の端緒が開かれたとも考えている。 その成果は、一般向けの図書であるが拙著『格差拡大とイスラーム教』(プレジデント社)において、論じた。 また、このスーフィズムの思想確立における仏教思想の融合という視点は、原理主義的なイスラームとは異なる寛容、融和的なイスラーム思想の可能性を明らかにするものでもある。 さらに言えば、当該地域のイスラームの展開の研究により、東南アジアにおける仏教から、イスラームへの宗教変容の要因かなりの程度明らかにすることができる。 つまり、東ンドから伝播定着した仏教やヒンドゥー教の第二として、これらと親和性のあるスーフィズムが東南アジアに伝播し、かつてと同様に、新しい宗教運動として、仏教やヒンドゥー教から、イスラームへと宗教が容易に変えられた、というそのメカニズムを仮説的ではあるが、説明できるように思われた。この点は、今後の研究を通じてさらに明確化する。 いずれにしても、本研究では本テーマの研究に、伝統的な人文学領域に加え、社会科学のアプローチ、つまり経済学や政治学の視点も活用した、その成果の一端は『エコノミスト』誌にも掲載した。 総じて、個人の研究ではあったが、その成果は、中央アジア、インド、東南アジアへと広がるイスラームベルト形成のメカニズムの解明に一歩近づいた成果を得ることができた。 序文の解説『日本人の思惟方法』(みすず判 p.3 春秋社初版 p.3 普及版 p.3 )
最初の注目点・・・・本文より引用 漢字で表現したことである。 着眼点・・漢字で自らの考えを表すことが持つ宿命的な文化 言葉は、意思疎通の媒体であり、それは特定の対象に限定される音声による、つまり聴覚によるなど時間、空間的限定を持ち、その故に対象者が限定されるものと、文字という時間・空間の限定を越えた不特定多数を対象とした情報伝達手段からなるものに分かれることは周知の事実である。(ただし現在では、音声伝達の技術が発達し、伝達対象は無限的になっていると云えるが、時間的にはその限定はまだ残っている。)*ちょっとくどいですが!! つまり、文字と云う時間・空間において非限定的な対象に対する伝達手段を持たない文化に属する日本人の文化は、口伝という直接的な意思疎通の手段の為に、その社会は意思疎通や情報交換、そして情報処理、記録などに限定的な社会となる。 勿論、文字をも持たずに高度な文明を形成したインダス文明やアンデス文明のような文明も存在した。しかし、文字と云う記録媒体を持たなかった故に、これ等の文明の全体像などは、文字を持った文明に比べて、その社会把握のための情報量は格段に少なくなる。 恐らく、当該の文明自身にあっても情報伝達には大きな制約があり、そのためにその伝達範囲、特に命令システムの規模においても、必然的に限定的となる。音声による言葉の伝達機能には、それが聴覚という直接的な機能を前提としているので、限界があるということですね。 さて、中村先生の日本人は自らの文字を持たずに独自の文化、更には文明を形成して来たが、(*中村先生は「文明」という言葉は余り用いない。これは文明と云う概念が比較的に新しいものであり、中村先生の中では概念が確定していない、ということに起因するようである。)という指摘は、周知の事実として一般に知られているいわば常識である。しかし、この事実を日本人の思想の独自性と結びつけた議論、特に、その無為意識、あるいは宿命的な限定性に着目して、その思想的な特徴に着目するということは、インド・中国・韓国・チベットと云うようなアジア各地の思想を比較研究してきた中村先生ならではの極めて独創的且つ鋭利な日本文化研究の視点である。 これを例えて言えば、料理をするときに、すでに材料以外の器具が、揃えられているという状態に当たるであろう。 試みに、パンを例に考えると以下のようになる。 パンを作るには材料の配分や成型、オーブンなどの器具が不可欠となる。日本の場合は、パンの材料(口伝による情報交換手段。言葉)は独自のものを持っていたが、それをパン(伝達手段としての文字化)にするためのノウハウや機材を持っていなかった。そこで、これ等の道具を中国から借用することとなった。これが漢字による日本語の表記ということである。一般の研究は、この漢字の輸入(導入と云うよりも客観的で、歴史的な事実を強く意識させる言葉ではないだろうか。導入と云うと、選ぶ方に主体性が強く感じられるように思われる。つまり、なくてもよかったけど、と云うような意味が感じられる。一種のナショナリズムを感じるのである。筆者は!とその定着の過程に関しては、国語の歴史などで、多くの先学が言及されているとおりである。例えば、万葉仮名の研究、あるいは『古事記』の研究等がその代表であろう。 この点は専門家ではないので、詳細はそれらの労作に譲るが、中村先生の指摘は、漢字の導入から、日本人がこの中国文化の精華とも云える漢字及びその表現文化、つまり漢文を媒介としての中華思想の影響、或は呪縛から 本格的に解放されたのは、なんと明治以降である、と云う指摘である。と云うのも、日本の知識人の殆どは、思想的な主著(文学や国学者は異なるが)を表す時には、漢文によっており、その伝統は殆ど幕末まで続いていた、ということである。勿論、これは哲学的な思想の体系を表現するという時のことであり、歌やエッセイのような非体系的なものは別である。*中村先生は講義などで、道元の存在を非常に高く評価しておられた。その意味は個々にある。彼は、当時の超エリートの生まれであり、十分な漢文教養を身に着け、さらに中国(宋)に留学し、中国的教養を誰よりも身に着けていた人である。その道元の主著『正法眼蔵』を漢字・仮名交じり文つまり、現代の日本語と略同じ形態で書き現したという事実である。よく、「現代人が哲学的な高度な思想を日本語で書き表せるのは、道元禅師のおかげです。」と、中村先生が話されたいたことは、決して大げさではないのである。 と云うのも一般には、民衆仏教の祖と云われる法然も、親鸞も、得類は栄西もその主著は漢文で書かれている。つまり、中国語(現代のではないが)で書かれている。勿論、道元さんは、『永平広録』などの漢文の著作も当然ある。 しかし、道元以降主著が感じかな混じり文で書いた思想家は、国学者の本居などを除くと、幕末までほとんどいないようである。(ただし、江戸期の鈴木正三や石田梅岩のような思想家、宗教家としては重要だが、いわばセミプロのような知識者は、その限りではない) 省略 仮に漢文表現が、エリート階級の著作、そして漢字熟語が彼らの言葉とすれば、庶民の言葉は「やまと」言葉、その著作は仮名交じり文ということになるであろうか(東大名誉教授・鎌倉女子大教授の整一先生の表現を拝借)。 閑話休題、中村先生の云わんとするとところを、比喩的に表すと以下のようにならないだろうか? 例えば、思索とその表現をパン作りに譬えてみよう。 パンを作るには、材料と道具が必要である。ここでも道具が漢語・漢文に当たる。 パンの材料は独自のものが揃えてあるという前提(これは日本人の思想信条は、とりあえず独立に形成されている、と云う段純化した前提であるが、話を分かりやすくするために単純化) さて、パンを作るときに用いる道具の限定は、結果的に出来上がるパンの諸形態、つまり、味や、形、焼き具合などを大きく左右する。このことを日本における思想表現、あるいは思想形成に置き換えると、やはりその影響は決して小さくない。 従来の研究は、日本のパン職人が如何に、与えられた道具を上手く使いこなせて来たかと云う視点での研究が多かったように思われるが、中村先生は、道具が持つ限定性という点に着眼したのである。 従来の発想では意識されることが少なかったこの根本的な日本語に課された本源的な限定性と云う認識から出発した中村先生の日本文化論が、賛否両論の大きなうねりを引き起こしたのはある意味で当然であった。 しかし、中村先生への学問的な保守層からの負評価は、中村先生の此の業績がアメリカのスタンフォード大学やオックスフォード大学からの招聘を受けるという敗戦国日本のおけるビックニュースによってたちまち雲散霧消する(注この時の同書への批評は、大変厳しいというか理不尽なものであった。(今閲覧すると*****であるが) いずれにしても、先輩方の批評の根底には、伝統的な形態に立脚する守旧派のそれがあったが、それがアメリカから帰国さる以前と以後で評価が180度変わったというのも、日本的な話である。これはある意味、日本の精神文化の伝統(?)であり、当然と云えば当然であるが、此処にも黒船やマッカーサーによる改革に通じる日本人の思考の原型を見ることができる。外来文化とどのように退治するか、吸収するかと云う後の大きな研究課題のところで、また触れることになると。 何れにしても、中村先生のこの言葉の表現の道具である文字の着目した文化比較と云う視点は、その後中村先生によって積極的に推進される。 この文字表現への言及は、実は思想を表現するに不可欠な論理構造を明らかにし、比較することで各国の文化の特徴を、客観的且つ明確に明らかにする、という中村先生の目的から生じた発想であり、当時もたらされた言語哲学の影響によるものでもある。 このように中村先生客観的な思想の比較研究の為に、言葉の持つ独自の論理構造に着目し、これを以て文化比較の基礎としたのである。そのために、みすず書房から出版された昭和23・24年の初版では、はじめに論理学の構造比較の方法等が詳しく検討されている。ただ、この部分は春秋社から出版された『中村元選集』に於いては、カットされている。 この論理構造比較の部分は、中村元博士の没後3周年記念出版事業として、『構造論理学講座』3巻として後継者である前田 專學博士によって出版されている。 続く ・桃太郎の、一方的に鬼達を征伐し財宝を略奪して帰る行為は、聖戦思想に通じる
・日本には歴史的に「征伐」や「討伐」といった言葉があり、これらは「聖戦」と並べて考えられる。たとえば征夷大将軍の「征」の字は、天皇の軍隊である証明で、天皇の命令さえあれば、その戦いは正当化された。この論理は朝鮮征伐、日清日露戦争における「神軍」「皇軍」へと繋がってゆく ・日本語で「聖戦」と訳されるイスラームの「ジハード」は、本来「奮闘努力する」という意味で、「宗教・宗教生活のために努力する」という意味も含む。そしてジハードを宣言できるのはカリフと決められていたが、カリフ制衰退後は、一定の宗教的合理性があれば発せられるようになり、乱発されている。 ・現在のイスラム国によるジハードは、「グローバル・ジハード」や「ローンウルフ・ジハード」など、拡大解釈されたジハードであり、これらは近代の西洋文明への復讐・対抗の精神に根差しており、ヨーロッパの植民地支配が端緒となっている。またイスラム国は、ワッハーブ派が採用しているコーランに基づいた行動原理を持っており、ワッハーブ派はサウジアラビアと密約で結びつき、その背後にはイギリスのバックアップがあるなど根が深い ・S・ハンチントンの『文明の衝突』は、アメリカ中心の発想であるものの、中東がアメリカによって紛争の巣とされ、軍需産業の一大拠点になると予測している点など、大いに当たっている。 |
保坂俊司宗教を中心に人間およびその社会の多面的な側面を、従来の学問の枠にこだわらず考察する。 Archives
October 2016
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