序文の解説
『日本人の思惟方法』(みすず判 p.3 春秋社初版 p.3 普及版 p.3 )
最初の注目点・・・・本文より引用
漢字で表現したことである。
着眼点・・漢字で自らの考えを表すことが持つ宿命的な文化
言葉は、意思疎通の媒体であり、それは特定の対象に限定される音声による、つまり聴覚によるなど時間、空間的限定を持ち、その故に対象者が限定されるものと、文字という時間・空間の限定を越えた不特定多数を対象とした情報伝達手段からなるものに分かれることは周知の事実である。(ただし現在では、音声伝達の技術が発達し、伝達対象は無限的になっていると云えるが、時間的にはその限定はまだ残っている。)*ちょっとくどいですが!!
つまり、文字と云う時間・空間において非限定的な対象に対する伝達手段を持たない文化に属する日本人の文化は、口伝という直接的な意思疎通の手段の為に、その社会は意思疎通や情報交換、そして情報処理、記録などに限定的な社会となる。
勿論、文字をも持たずに高度な文明を形成したインダス文明やアンデス文明のような文明も存在した。しかし、文字と云う記録媒体を持たなかった故に、これ等の文明の全体像などは、文字を持った文明に比べて、その社会把握のための情報量は格段に少なくなる。
恐らく、当該の文明自身にあっても情報伝達には大きな制約があり、そのためにその伝達範囲、特に命令システムの規模においても、必然的に限定的となる。音声による言葉の伝達機能には、それが聴覚という直接的な機能を前提としているので、限界があるということですね。
さて、中村先生の日本人は自らの文字を持たずに独自の文化、更には文明を形成して来たが、(*中村先生は「文明」という言葉は余り用いない。これは文明と云う概念が比較的に新しいものであり、中村先生の中では概念が確定していない、ということに起因するようである。)という指摘は、周知の事実として一般に知られているいわば常識である。しかし、この事実を日本人の思想の独自性と結びつけた議論、特に、その無為意識、あるいは宿命的な限定性に着目して、その思想的な特徴に着目するということは、インド・中国・韓国・チベットと云うようなアジア各地の思想を比較研究してきた中村先生ならではの極めて独創的且つ鋭利な日本文化研究の視点である。
これを例えて言えば、料理をするときに、すでに材料以外の器具が、揃えられているという状態に当たるであろう。
試みに、パンを例に考えると以下のようになる。
パンを作るには材料の配分や成型、オーブンなどの器具が不可欠となる。日本の場合は、パンの材料(口伝による情報交換手段。言葉)は独自のものを持っていたが、それをパン(伝達手段としての文字化)にするためのノウハウや機材を持っていなかった。そこで、これ等の道具を中国から借用することとなった。これが漢字による日本語の表記ということである。一般の研究は、この漢字の輸入(導入と云うよりも客観的で、歴史的な事実を強く意識させる言葉ではないだろうか。導入と云うと、選ぶ方に主体性が強く感じられるように思われる。つまり、なくてもよかったけど、と云うような意味が感じられる。一種のナショナリズムを感じるのである。筆者は!とその定着の過程に関しては、国語の歴史などで、多くの先学が言及されているとおりである。例えば、万葉仮名の研究、あるいは『古事記』の研究等がその代表であろう。
この点は専門家ではないので、詳細はそれらの労作に譲るが、中村先生の指摘は、漢字の導入から、日本人がこの中国文化の精華とも云える漢字及びその表現文化、つまり漢文を媒介としての中華思想の影響、或は呪縛から 本格的に解放されたのは、なんと明治以降である、と云う指摘である。と云うのも、日本の知識人の殆どは、思想的な主著(文学や国学者は異なるが)を表す時には、漢文によっており、その伝統は殆ど幕末まで続いていた、ということである。勿論、これは哲学的な思想の体系を表現するという時のことであり、歌やエッセイのような非体系的なものは別である。*中村先生は講義などで、道元の存在を非常に高く評価しておられた。その意味は個々にある。彼は、当時の超エリートの生まれであり、十分な漢文教養を身に着け、さらに中国(宋)に留学し、中国的教養を誰よりも身に着けていた人である。その道元の主著『正法眼蔵』を漢字・仮名交じり文つまり、現代の日本語と略同じ形態で書き現したという事実である。よく、「現代人が哲学的な高度な思想を日本語で書き表せるのは、道元禅師のおかげです。」と、中村先生が話されたいたことは、決して大げさではないのである。
と云うのも一般には、民衆仏教の祖と云われる法然も、親鸞も、得類は栄西もその主著は漢文で書かれている。つまり、中国語(現代のではないが)で書かれている。勿論、道元さんは、『永平広録』などの漢文の著作も当然ある。
しかし、道元以降主著が感じかな混じり文で書いた思想家は、国学者の本居などを除くと、幕末までほとんどいないようである。(ただし、江戸期の鈴木正三や石田梅岩のような思想家、宗教家としては重要だが、いわばセミプロのような知識者は、その限りではない)
省略
仮に漢文表現が、エリート階級の著作、そして漢字熟語が彼らの言葉とすれば、庶民の言葉は「やまと」言葉、その著作は仮名交じり文ということになるであろうか(東大名誉教授・鎌倉女子大教授の整一先生の表現を拝借)。
閑話休題、中村先生の云わんとするとところを、比喩的に表すと以下のようにならないだろうか?
例えば、思索とその表現をパン作りに譬えてみよう。
パンを作るには、材料と道具が必要である。ここでも道具が漢語・漢文に当たる。
パンの材料は独自のものが揃えてあるという前提(これは日本人の思想信条は、とりあえず独立に形成されている、と云う段純化した前提であるが、話を分かりやすくするために単純化)
さて、パンを作るときに用いる道具の限定は、結果的に出来上がるパンの諸形態、つまり、味や、形、焼き具合などを大きく左右する。このことを日本における思想表現、あるいは思想形成に置き換えると、やはりその影響は決して小さくない。
従来の研究は、日本のパン職人が如何に、与えられた道具を上手く使いこなせて来たかと云う視点での研究が多かったように思われるが、中村先生は、道具が持つ限定性という点に着眼したのである。
従来の発想では意識されることが少なかったこの根本的な日本語に課された本源的な限定性と云う認識から出発した中村先生の日本文化論が、賛否両論の大きなうねりを引き起こしたのはある意味で当然であった。
しかし、中村先生への学問的な保守層からの負評価は、中村先生の此の業績がアメリカのスタンフォード大学やオックスフォード大学からの招聘を受けるという敗戦国日本のおけるビックニュースによってたちまち雲散霧消する(注この時の同書への批評は、大変厳しいというか理不尽なものであった。(今閲覧すると*****であるが)
いずれにしても、先輩方の批評の根底には、伝統的な形態に立脚する守旧派のそれがあったが、それがアメリカから帰国さる以前と以後で評価が180度変わったというのも、日本的な話である。これはある意味、日本の精神文化の伝統(?)であり、当然と云えば当然であるが、此処にも黒船やマッカーサーによる改革に通じる日本人の思考の原型を見ることができる。外来文化とどのように退治するか、吸収するかと云う後の大きな研究課題のところで、また触れることになると。
何れにしても、中村先生のこの言葉の表現の道具である文字の着目した文化比較と云う視点は、その後中村先生によって積極的に推進される。
この文字表現への言及は、実は思想を表現するに不可欠な論理構造を明らかにし、比較することで各国の文化の特徴を、客観的且つ明確に明らかにする、という中村先生の目的から生じた発想であり、当時もたらされた言語哲学の影響によるものでもある。
このように中村先生客観的な思想の比較研究の為に、言葉の持つ独自の論理構造に着目し、これを以て文化比較の基礎としたのである。そのために、みすず書房から出版された昭和23・24年の初版では、はじめに論理学の構造比較の方法等が詳しく検討されている。ただ、この部分は春秋社から出版された『中村元選集』に於いては、カットされている。
この論理構造比較の部分は、中村元博士の没後3周年記念出版事業として、『構造論理学講座』3巻として後継者である前田 專學博士によって出版されている。
続く
最初の注目点・・・・本文より引用
漢字で表現したことである。
着眼点・・漢字で自らの考えを表すことが持つ宿命的な文化
言葉は、意思疎通の媒体であり、それは特定の対象に限定される音声による、つまり聴覚によるなど時間、空間的限定を持ち、その故に対象者が限定されるものと、文字という時間・空間の限定を越えた不特定多数を対象とした情報伝達手段からなるものに分かれることは周知の事実である。(ただし現在では、音声伝達の技術が発達し、伝達対象は無限的になっていると云えるが、時間的にはその限定はまだ残っている。)*ちょっとくどいですが!!
つまり、文字と云う時間・空間において非限定的な対象に対する伝達手段を持たない文化に属する日本人の文化は、口伝という直接的な意思疎通の手段の為に、その社会は意思疎通や情報交換、そして情報処理、記録などに限定的な社会となる。
勿論、文字をも持たずに高度な文明を形成したインダス文明やアンデス文明のような文明も存在した。しかし、文字と云う記録媒体を持たなかった故に、これ等の文明の全体像などは、文字を持った文明に比べて、その社会把握のための情報量は格段に少なくなる。
恐らく、当該の文明自身にあっても情報伝達には大きな制約があり、そのためにその伝達範囲、特に命令システムの規模においても、必然的に限定的となる。音声による言葉の伝達機能には、それが聴覚という直接的な機能を前提としているので、限界があるということですね。
さて、中村先生の日本人は自らの文字を持たずに独自の文化、更には文明を形成して来たが、(*中村先生は「文明」という言葉は余り用いない。これは文明と云う概念が比較的に新しいものであり、中村先生の中では概念が確定していない、ということに起因するようである。)という指摘は、周知の事実として一般に知られているいわば常識である。しかし、この事実を日本人の思想の独自性と結びつけた議論、特に、その無為意識、あるいは宿命的な限定性に着目して、その思想的な特徴に着目するということは、インド・中国・韓国・チベットと云うようなアジア各地の思想を比較研究してきた中村先生ならではの極めて独創的且つ鋭利な日本文化研究の視点である。
これを例えて言えば、料理をするときに、すでに材料以外の器具が、揃えられているという状態に当たるであろう。
試みに、パンを例に考えると以下のようになる。
パンを作るには材料の配分や成型、オーブンなどの器具が不可欠となる。日本の場合は、パンの材料(口伝による情報交換手段。言葉)は独自のものを持っていたが、それをパン(伝達手段としての文字化)にするためのノウハウや機材を持っていなかった。そこで、これ等の道具を中国から借用することとなった。これが漢字による日本語の表記ということである。一般の研究は、この漢字の輸入(導入と云うよりも客観的で、歴史的な事実を強く意識させる言葉ではないだろうか。導入と云うと、選ぶ方に主体性が強く感じられるように思われる。つまり、なくてもよかったけど、と云うような意味が感じられる。一種のナショナリズムを感じるのである。筆者は!とその定着の過程に関しては、国語の歴史などで、多くの先学が言及されているとおりである。例えば、万葉仮名の研究、あるいは『古事記』の研究等がその代表であろう。
この点は専門家ではないので、詳細はそれらの労作に譲るが、中村先生の指摘は、漢字の導入から、日本人がこの中国文化の精華とも云える漢字及びその表現文化、つまり漢文を媒介としての中華思想の影響、或は呪縛から 本格的に解放されたのは、なんと明治以降である、と云う指摘である。と云うのも、日本の知識人の殆どは、思想的な主著(文学や国学者は異なるが)を表す時には、漢文によっており、その伝統は殆ど幕末まで続いていた、ということである。勿論、これは哲学的な思想の体系を表現するという時のことであり、歌やエッセイのような非体系的なものは別である。*中村先生は講義などで、道元の存在を非常に高く評価しておられた。その意味は個々にある。彼は、当時の超エリートの生まれであり、十分な漢文教養を身に着け、さらに中国(宋)に留学し、中国的教養を誰よりも身に着けていた人である。その道元の主著『正法眼蔵』を漢字・仮名交じり文つまり、現代の日本語と略同じ形態で書き現したという事実である。よく、「現代人が哲学的な高度な思想を日本語で書き表せるのは、道元禅師のおかげです。」と、中村先生が話されたいたことは、決して大げさではないのである。
と云うのも一般には、民衆仏教の祖と云われる法然も、親鸞も、得類は栄西もその主著は漢文で書かれている。つまり、中国語(現代のではないが)で書かれている。勿論、道元さんは、『永平広録』などの漢文の著作も当然ある。
しかし、道元以降主著が感じかな混じり文で書いた思想家は、国学者の本居などを除くと、幕末までほとんどいないようである。(ただし、江戸期の鈴木正三や石田梅岩のような思想家、宗教家としては重要だが、いわばセミプロのような知識者は、その限りではない)
省略
仮に漢文表現が、エリート階級の著作、そして漢字熟語が彼らの言葉とすれば、庶民の言葉は「やまと」言葉、その著作は仮名交じり文ということになるであろうか(東大名誉教授・鎌倉女子大教授の整一先生の表現を拝借)。
閑話休題、中村先生の云わんとするとところを、比喩的に表すと以下のようにならないだろうか?
例えば、思索とその表現をパン作りに譬えてみよう。
パンを作るには、材料と道具が必要である。ここでも道具が漢語・漢文に当たる。
パンの材料は独自のものが揃えてあるという前提(これは日本人の思想信条は、とりあえず独立に形成されている、と云う段純化した前提であるが、話を分かりやすくするために単純化)
さて、パンを作るときに用いる道具の限定は、結果的に出来上がるパンの諸形態、つまり、味や、形、焼き具合などを大きく左右する。このことを日本における思想表現、あるいは思想形成に置き換えると、やはりその影響は決して小さくない。
従来の研究は、日本のパン職人が如何に、与えられた道具を上手く使いこなせて来たかと云う視点での研究が多かったように思われるが、中村先生は、道具が持つ限定性という点に着眼したのである。
従来の発想では意識されることが少なかったこの根本的な日本語に課された本源的な限定性と云う認識から出発した中村先生の日本文化論が、賛否両論の大きなうねりを引き起こしたのはある意味で当然であった。
しかし、中村先生への学問的な保守層からの負評価は、中村先生の此の業績がアメリカのスタンフォード大学やオックスフォード大学からの招聘を受けるという敗戦国日本のおけるビックニュースによってたちまち雲散霧消する(注この時の同書への批評は、大変厳しいというか理不尽なものであった。(今閲覧すると*****であるが)
いずれにしても、先輩方の批評の根底には、伝統的な形態に立脚する守旧派のそれがあったが、それがアメリカから帰国さる以前と以後で評価が180度変わったというのも、日本的な話である。これはある意味、日本の精神文化の伝統(?)であり、当然と云えば当然であるが、此処にも黒船やマッカーサーによる改革に通じる日本人の思考の原型を見ることができる。外来文化とどのように退治するか、吸収するかと云う後の大きな研究課題のところで、また触れることになると。
何れにしても、中村先生のこの言葉の表現の道具である文字の着目した文化比較と云う視点は、その後中村先生によって積極的に推進される。
この文字表現への言及は、実は思想を表現するに不可欠な論理構造を明らかにし、比較することで各国の文化の特徴を、客観的且つ明確に明らかにする、という中村先生の目的から生じた発想であり、当時もたらされた言語哲学の影響によるものでもある。
このように中村先生客観的な思想の比較研究の為に、言葉の持つ独自の論理構造に着目し、これを以て文化比較の基礎としたのである。そのために、みすず書房から出版された昭和23・24年の初版では、はじめに論理学の構造比較の方法等が詳しく検討されている。ただ、この部分は春秋社から出版された『中村元選集』に於いては、カットされている。
この論理構造比較の部分は、中村元博士の没後3周年記念出版事業として、『構造論理学講座』3巻として後継者である前田 專學博士によって出版されている。
続く